
自分で先の予想がつかないのが本当のようだ。大学を卒業した当時は不景気な時代で、大学の事務局の掲示板に貼られていた求人用紙は本当に少なかった。以前、20数年振りに学園祭に行った時に、この求人用紙が沢山貼られていたのには大変驚いた。教師。警察官の募集。…公務員など考えられなかった。芸大も様変わりしていたのだ。
卒業しても就職先は決まらずハローワーク通い。新聞を何部も買って来て求人欄や求人チラシを見て面接に行った。そして、取りあえずガソリンスタンドで働いたが、職場と同僚に馴染めず、すぐに辞めた。それから、中小の書店の店員で働いた。仕事自体はハードではなかったが、健康保険がないことなどに不信感がつのり半年ほどで退職した。社長は面接の時「健康保険は作る予定」と言ってはいたが、その気配はとうとうなかった。アルバイトを一生は出来ない。それから図書販売の書店で百科事典のセールスをした。毎日、歩いて訪問販売をした。だが、さっぱり売れなくて、すぐに解雇を言い渡された。
大学を卒業して1年過ぎて、やっと、健康保険と年金のある自動車販売会社に就職出来た。ここで3年ほど働いた。ただ、売った新車のクレームの多さに嫌気がさして、知人から誘われた火災保険、損害保険の会社へ転職した。しかし、こちらも飛び込みの訪問販売が主。成績が危うくて1年もしないうちに辞めた。そして、観光バス会社の営業をした。この時に今の妻と結婚した。27歳だった。バス会社は2代目の社長。態度がデカくて従業員を「きさま」呼ばわりした。「きさま」と呼ばれて社長に従う気持ちはさらさらなかったので、長女が生まれてはいたがバス会社は辞めた。新婚で親と同居。子どもがいたので、世間体を恐れる母は「早く仕事を探せ!」と毎日叱咤した。母は営業ではなくて工場の現場を探せと指図した。
そこで自分は文化系ではあったが、畑違いの工業系、近所の紡績工場で働いた。ここで6年ほど働いた。だが、過酷な工場内の騒音と長時間労働で、右側の耳が完全に聞こえなくなってしまった。…それから、後は現在になる。左側の耳も聞こえなくなって、私はとうとう全聾になってしまった。時々、母が指図した紡績工場で「…働きさえしなければ?」と考えることがある。だが、これも自分の運命であろうから、人を恨まずにやって行くしかない。あの時は、仕事を選べるどころではなかったのだ。そして、不幸を幸運に変えて、前向きに生きて行くしかない。