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前に、ある友人が「禅は瞑想すればいいだけで、誰にでも出来るのです」みたいな話をしていました。

しかし、私は彼の考え方は間違っていると思いました。理由は…? 確かに初心者にとって禅は難しそうですから、身近な例えとしては、それも良いとは考えます。 ただ、そんな認識だと「茶道は、お茶をいれるだけです」や「華道は、花を生けるだけなのですよ」みたいな合理的な例えにも通じてしまう訳でして、禅の本質とはかけ離れてしまう気がするのです。

禅は瞑想するだけに見えるかもしれません。でも、そこには日本の伝統的な作法や礼儀や格式がある筈なので「誰でも出来ます」では決してないのです。だから、その友人の禅に対する基本的な立ち位置は全の勉強不足。勘違いなのです。何故ならば? 合理的に割り切れる思考からは何ら伝統文化は継承されないからです。

前にテレビで日本通の外人さんの茶道の先生(中年男性)のインタビューがあって、先生は「茶道は、お茶をいれる作法の全てが、無駄がなくて、とても美しいのです」と話していました。…そういうことなのでしょう。禅はあくまで、誰でもが、すぐには悟れない神聖な領域であり、精進して学んで行くことにより、個々の心象世界が構築されるものだと思われます。インスタントラーメンではなくて、職人が作り上げる領域。


2015/09/06(日) 14:41 PERMALINK COM(0)
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